こんにちは、川畑です。
本日もありがとうございます。
できることなら幸福な人生を歩みたいものです。
自分の人生を最期に総括するのは誰なんだろう?と思ったりします。
進撃の巨人の調査兵団団長のエルヴィン・スミスがこう言っていました。
「我々はここで死に次の生者に意味を託す」と。
突撃前の激励、覚悟を決めさせる言葉としては最高で、読んでいて身震いしました。
※アニメ版もすさまじい迫力なのでぜひ見てみてください。
ただ、これはどうなんでしょう。
平和に生きている限り、自分自身としては死後の評価を人に求めてもなぁと思います。
死ぬときに自分の人生を総括し「良かった」と独断と偏見で決めつけるのは自分でありたいものです。
ここに他者の評価なんか関係ありません。
よそはよそ、うちはうち
誰でも子供の頃に両親から言われたことがあるこのことば。
よくあるパターンは、
「○○くん家はハワイに旅行だって!」とか
「○○くんは新しいゲームを買ってもらってるんだって!」
みたいな、僕たちも行きたい、欲しい、やりたい系の願望に対して親が言うパターンです。
こういうパターンで使うのは嫌いです。
でも大人になった今、「よそはよそ、うちはうち」の考え方は自分の人生の幸福度を上げるために重要なんじゃないか?と思うようになりました。
自分の価値観がないと不幸になる
何をするにも自分の価値観が大切です。
幸せに生きるための評価軸は、他者ではなく自分であるべきです。
もちろん他人の評価を気にせず、傍若無人に生きることは懸命ではありません。
しかし、自分の価値観で欲しいもの、行きたい所、やりたいことをせず、他人の価値観に合わせると地獄を見ます。
自分の価値観というと貧乏臭く生きる生き方も「自分の価値観なんだ」と肯定されて美談にされるケースがあります。
でもここで私の言う自分の価値観とは、自分がどう生きるのか、何をやり、何を買うのかの全ての判断基準を自分の価値観で決めると良いということです。
高いものを買わない、豪華な暮らしをしないことの正当化に使うという意味では全くありません。
派手な暮らしであったりしても、自分の価値観で決めた結果なら何ら問題ないのです。
見栄は高くつく
派手な暮らしでも良いと言いつつ、見栄は高くつくとは矛盾があるように思います。
しかし、全く矛盾していません。
どんなに派手な暮らしをしようとも、自分の軸で評価をしていればいらないものには一銭もお金を払わないのです。
一方、判断軸が「他者」であると、必要か否かに関わらず評価が得られそうなものは必ず買ってしまいます。
ちょっとした背伸びのつもりが、積もりに積もるととんでもない金額になっていきます。
- 友達にカッコ良く思われる店で食事をする
- 友達にカッコ良く思われる車を買う
- 同僚にカッコ良く思われる場所に住む
- 同僚にカッコ良く思われる時計・服を買う
全て見栄です。
自分の価値観がないと不幸になる
見栄は高くつくという話をしてきましたが、自分の価値観で動かないと不幸になります。
幸せかどうかは、自分が満足するか?のみで決まります。
他者の評価を主軸にすると、満足が出来ません。
例えば高い買い物をしても、周りの反応が悪いとガッカリすることになります。
しかし、自分が欲しいから、これが自分の判断で良いと思ったからということであれば気になりません。
どう思われようが、他の人はいらないのかもしれないけれど、自分は欲しかった
ただそれだけのことだからです。
結局のところ、よそはよそ、うちはうちという考え方で生きるというのは、案外悪くない生き方なのかもしれません。
編集後記
私は近い将来ポルシェに乗る言う願望があります。カッコ良いからです。
人の評価?気にしてませんよ!気にしてませんとも!
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